東京台湾の会有志が発起人となって、6月14日、都内ホテルで喜久四郎叙勲祝賀会が開催された(※1)。参加者全員の記念写真撮影後、開会。呉正男さんが発起人代表として祝賀会開催の経緯を説明し、「素晴らしい準備をしてくれた担当者に感謝します。(会長の意志にそって身内だけの)ささやかな祝賀会が実現できたことを嬉しく思います」と述べた。
来賓祝辞として台湾協会齋藤毅理事長が挨拶した。齋藤氏は、喜久氏の叙勲を祝いながら、長年の教員生活に敬意を払いながら、「実は、私は昭和19年(1944年)に喜久四郎会長(※2)の母校である台北師範学校の附属国民学校に入学しました。同年、喜久会長はすでに国民学校に赴任しており、もう1,2年早く生まれていれば喜久会長の謦咳に接することができました」と悔しがった。
この後、サプライズがあった。喜久会長の母校である現・国立台北教育大学の張新仁校長から祝辞と記念品が贈呈され、来日できない張校長に代り、元台北師範学校芳蘭会(同窓会)事務局長の荘樹春氏がこの大役を担った。
続いて喜久会長の経歴を山下越子理事が紹介。これを受けて喜久会長は、子供時代、標高2000mの山で生活し、理科の授業でトロッコに乗って下山し、1日がかりで仏桑華(ハイビスカス)を観察したことなどを紹介するとともに「(終戦で)初めて日本の土を踏んだ時は私には異国(情緒)でした」と振り返った。
東京台湾の会の松澤寛文理事より、お祝いの贈呈、祝電披露が行われた後、同会三宅教雄顧問が乾杯の音頭を取った。和やかな歓談のなかで、元交流協会高雄事務所長喜田修氏、台湾物産館藤田克己社長(池栄青果株式会社社長)、日本李登輝友の会柚原正敬事務局長がそれぞれ心温まるスピーチを行った。
余興としてバリトン歌手古川精一さんが「仰げば尊し」、「ベートーヴェン合唱曲『歓喜の歌』(交響曲第九番・第4楽章)を熱唱した。この後も台湾協会根井洌常務理事、不破光一氏(明石会)などスピーチが続き、終盤には喜久会長の子息、喜久豊氏が挨拶、さらに喜久会長が「台湾行進曲」を歌い、会場は大きな拍手に包まれた。
中締めの挨拶は、中島欽一元理事、閉会の挨拶は、多井昭憲事務局長が行った。
※1喜久四郎氏は岐阜県下呂市教委の推薦により、今春の叙勲者に選ばれ、「瑞宝双光章」を受章された。
※2喜久四郎氏は、台湾原住民地区の警察官の5男として、1925年(大正14年)2月に生まれ、1932年(昭和7年)4月、太平山の日台共学の小学校に入学、寄宿舎生活。高等科卒業後台北第二師範学校(後に台北師範学校を経て、現国立台北教育大学)に進学(入寮)。1944年(昭和19年)日本人移民地区花蓮港区吉野村吉野国民学校に赴任。1944年9月、歩兵隊第304連隊に入隊、10月に台湾沖航空戦でアメリカ・グラマンとの応戦に参加。1945年8月、嘉義で終戦。1946年3月、基隆より引き揚げ船に乗り、広島に上陸。本籍のある鹿児島県奄美大島に向かうも占領下にあり、親戚を頼り岐阜県に。1947年(昭和22年)よりへき地を中心に教員生活に入る。群馬県前橋で2年、以後、1949年(昭和24年~1985年(昭和60年)まで岐阜県で教職を務めた。