駐・那覇弁事処蘇啓誠処長インタビュー

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平成25年12月2日付けで駐・那覇弁事処処長に就任した蘇啓誠氏に抱負を聞いた。

蘇啓誠処長
蘇啓誠処長

Q:日本語との出会いは。

A:大学から。大学受験は、私たちの時代は自分の点数に見合った学科に自動的に振り分けられていました。当時、英語を希望していましたが、たまたま私の点数が日本語学科の点数に合致しました。入学した1975年は、台湾と日本が国交断絶後、3年目ということで気分としては英語を勉強したかったですね。

蔡茂豊先生と拓大の研修生(今は日通台北支店長)
蔡茂豊先生と拓大の研修生(今は日通台北支店長)

Q:大学で学んだこと。

A:大学2年生の時に交流協定を結んでいる日本の拓殖大学の学生20人が夏休みを利用して我が校(私立東呉大学)に短期語学留学でやってきました。その際に我が校からも10人のチューター(学生への学習助言や教授の補佐を行う者)が選ばれ、その中に私も運よく入りまして、同世代の日本人学生の世話をするなかで日本に興味が沸きました。その後、日本語教育に熱心な教授と出会い、大きな影響を受けました。

Q:日本の大学院に留学した経緯は。

A:最初は私立中国文化大学大学院に進学しました。当時、東呉大学には大学院はありませんでした。大学院は日本の総合百貨店のように政治、経済、文化となんでも好きなように勉強できました。10人合格しましたが競争率は高かったと思います。81年に大学院を卒業し、兵役について83年に除隊。日本第一製薬の台湾における子会社に就職しました。その傍ら、東呉大学と明志工業専門学校で非常勤講師を務めました。1985年には交流協会の奨学金で日本の大阪大学大学院に留学しました。日本は初めてで、忘れもしない4月2日、同期全員で東京に行きそこからそれぞれ留学先に分かれたんですが、新幹線から外の景色を眺めながら台湾より進んでいるなという印象を持ちましたね。

Q:外交部に入った経緯。

A:88年に大阪大学大学院を卒業した後、駐大阪弁事処の現地採用に応募して合格しました。国家公務員の資格はありませんからキャリアへの道は閉ざされています。ただ、周囲の人たちを見ていて私も外交官になれるかなと、独学で勉強し、受験しました。京都大学(博士課程)に留学していた家内からは無理だと言われましたが、その通りで1年目は失敗し、2年目にやっと合格しました。年齢制限ぎりぎりの34歳の時です。

Q:東京の代表処勤務が2回あるが。

A:合わせて10年と1カ月です。1回目は95年1月から2001年1月まで、2回目は2007年7月から2011年8月まで。1回目は国会議員や地方議員などのアテンドを中心とした政務の仕事でした。2回目は馬英九現総統が選挙前に東京を訪問した際に通訳などを務めました。2008年、政権交代後、馮寄台代表が就任し、秘書として仕えました。

Q:那覇弁事処長就任したが日本の印象は。

A:日本と台湾は本当に近くて親しい間柄だと思います。与那国島から110kmです。3.11以後、海部俊樹元総理大臣秘書官松本彧彦氏の企画による与那国島~台湾110kmリレー泳断は台湾でも大きく取り上げられました。天気がいい日は台湾が見えます。那覇は台湾北部と同じ亜熱帯気候で本土では見られない植物や食べ物がたくさんあります。バナナ、ドラゴンフルーツ、荔枝、マンゴーなど。国民性も沖縄は台湾と似ており、非常にフレンドリー。初対面でも古い友人のように付き合ってくれます。お酒も好きですし(笑)

Q:尖閣問題や漁業協定問題などについては。

A:数年前、台湾から日本の海上保安庁にあたる役所から1人、派遣されてきています。漁業問題などに対応するためです。去年の4月に長年の懸案事項だった漁業協定が締結されましたが、沖縄の一部の漁民から不満の声も出て、これまで両国の漁民同士が3回で話し合いをし、操業ルールに関する合意を得ましたので、これから実施の運びとなります。うまく行くことを願っています。

プロフィール

蘇啓誠(そ けいせい)処長:1957年8月1日生まれ。嘉義県出身。1979年6月、私立東呉大学日本語学科卒業。1981年6月、私立中国文化大学大学院日本文学専攻修士号取得。1988年4月、国立大阪大学大学院日本学専攻修士号取得。1991年1月、外交部に入る。以降、台北駐日経済文化代表処、亜東関係協会、那覇弁事処での勤務を経て、2013年12月、駐・那覇弁事処長に就任。

 

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