「大甲の聖人」志賀哲太郎が結ぶ台中と熊本の縁

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台中市北西部の街、大甲で小学校の代用教員として半生をささげ「大甲の聖人」と敬われる志賀哲太郎(1865~1924)を讃え、その功績を広く知ってもらうための講演と日台友好交流会が、哲太郎の出身地である熊本県益城町で2月24日、25日の両日に渡って開催された。(共催:益城町、益城町教育委員会、志賀哲太郎顕彰会 後援:熊本県、台北駐福岡経済文化辦事處ほか)

日本統治下の台湾における業績が讃えられる日本人として、烏山頭ダムと16,000kmにわたる水路(嘉南大圳)を完成させ嘉南平野一帯を大穀倉地に変えた八田與一を始め、近年、多くの人々が挙げられるようになったが、志賀哲太郎の名前は全くと言ってよいほど、知られていなかった。

志賀哲太郎の名前を初めて全国区で取り上げたのは、熊本県選出の衆議院議員・木原 稔氏。同氏が在野時代の2012年5月に台湾を訪問したとき、台中市大甲区にある「文昌廟」に「聖人(神様)」として祀られている日本人がいることを聞いて駆け付けたところ、奇しくもそれが熊本県益城町出身の志賀哲太郎だとわかったという。

2012年に「日本文化チャンネル桜」で志賀哲太郎を紹介した木原氏

帰国後そのことを木原氏自身のホームページに掲載したり、「日本文化チャンネル桜」の鼎談で紹介したことで地元の人々が広く知るところとなり、教育関係者の呼びかけで熊本県、益城町など行政も応援した志賀哲太郎顕彰会が2015年9月に組織された。今では顧問を含む会員数が50人を超え、毎月の定例会、年間1~2回の研修会(100人規模)、年間10回程度のミニ研修会(10~50人規模)を通じて、会誌発行、パネル展示など、活発な活動を繰り広げている。

平成29(2017)年12月に顕彰会が発行した「志賀哲太郎 資料集」の序文で台中市大甲区の劉来旺区長は次のように述べている。(一部略)

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志賀哲太郎先生が大甲で亡くなられて (1924年)、すでに一世紀近くになります。

私は大甲区公所の区長となって以来、伝統先例に則り、毎年の清明節の前には幹部職員を引き連れて鉄砧山南麓の「貞節嬬 (大甲三神の一神)」と「志賀哲太郎先生」の二つのお墓に詣でて参りました。前者は 150年前3度雨の恵みをもたらし、戦争の度に戦火から大甲の街を守って来ました。大甲の街の人々はその遺跡に詣で、這うようにひざまづき、額づいてお礼を言います。その御利益は天より高いものです。

後者の志賀哲太郎先生は日本人で、大甲の代用教員となられ、「真善美」を尊ぶ精神で大甲の子供達を教育されました。先生が亡くなられた後も、千人以上の教え子達が後の世も何世代にもわたってお墓に参拝し、敬意を表 しています。鎮(町)長も代々、お墓に詣でて敬意を表します。

文献によれば、志賀先生は元々高学歴の知識人で、新聞記者となり、積極的に政治活動をしておられました。しかし、先生は政治が騙し合いのようなものだと看破され、故郷に帰られます。そして子供を教え育てる教師になることを志しますが、思い通りに事が運ばず、台湾が日本に割譲された後の台湾への移民ブームの影響もあって、ついに当地台湾に移り住み、創設されたばかりの大甲公学校に赴任され、開校当初の教師となられたのでした。志賀先生は開校以来何年間も、就学適齢期の未就学児童がいると分かると、その家庭をまめに訪問され、読書を奨励し、貧しい者があれば金銭を提供して勉学を補助しました。それは先生の人並み外れた品格の表れでした。

日本人は礼節を大事にする民族です。志賀先生は特に礼節を重んじる人でした。子供達が面白がって四方八方から一人一人お辞儀をすると、志賀先生もその度に返礼をします。子供達がそれを見て大笑いすると、志賀先生も一緒になって大笑いします。それは祖父と孫の無邪気な遊びのようでした。そこに見られるのは「純真なる度量」とも言うべきものでした。

志賀先生は、国家統治のためには被統治国家の人々を大切にしなければならないと思っていましたが、それは権力者にとっては受け止めがたいことでした。あるとき、学生達が互いに語り合って集団で授業をボイコットして退学させられる事件がありました。志賀先生は学生達を罰することのないよう学校側に要請しました。そして終に、先生は死を以て諫めます。当事者ばかりでなく、大甲の名だたる人達、学童やその親達までもが驚きおののきました。数キロメートルにも及んだ長い会葬の列は、志賀先生の「この上なく美しい精神」を偲ばせるものでした。

台湾大甲の歴史において、かつて、幾千幾万人もの人々がこの地に生活し、記憶を留めて来ました。勿論いいときもあれば悪いときもありました。そんな長い歴史において「貞節嬬」と「志賀哲太郎」の二人の偉人は、「伝記」や古跡が示すとおり、永く大甲の人々を見守ってくれました。このお二人の事績は大甲の人々の心の奥深く刻み込まれ、何代も後の世まで語り伝えられていくことでしょう。

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愛情をもって子供に接した哲太郎と、今もお詣りの人が絶えない墓所(澤安保生、第八期2018年1月より)

「日本精神から見た志賀哲太郎と台湾」と題して2月25日に400人の聴衆を前に益城町文化会館ホールで講演した台北駐福岡経済文化辦事處の戎義俊處長(総領事)は、夏目漱石の「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ、師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」という言葉と「十年樹木、百年樹人」(樹木を育てるには10年、人を育てるには百年かかる)という台湾の諺を紹介した。そして国づくりの根幹である教育において、哲太郎が知識の伝授だけでなく“礼儀”や“時間の観念”など自らが身をもって範を示したこと。「勇気」「忠誠」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法」「清潔」といった日本精神をもって住民と暮らしたこと。日本人も台湾人もお互いに尊敬し友情を深めるべきとして「人権尊重」「公平無私」の態度で献身的に初等教育に取り組んだこと。その結果、26年間で1000人余りの台湾学生を教え、台湾各界に多大な貢献を残したこと。などを高く評価した大甲区役所が哲太郎を2011(平成23)年12月に「文昌廟(学問の神様=文昌君)が祀られている場所に入れることを決めたと述べた。

戎義俊総領事の講演

また、「縁は異なもの味なもの」という言葉を引き、人と人、町と町、国と国というものも、何か一つのきっかけによって上手く結ばれるものであるが、大甲と益城町が志賀哲太郎の縁で120年も前から繋がっていることに目に見えない何かを感じざるを得ないと述べ、今回の交流にわざわざ大甲区から参加された王澤佳副区長をはじめとする10名の台湾関係者、顕彰会の方々、参加者の方々の力で台中・大甲区と熊本県・益城町の縁がさらに深まり、教育や文化を軸とした交流を通して友好関係を育むことを祈念すると述べて講演を結んだ。

講演会の後、30分以上かけて哲太郎の一生を熱弁する 寿咲亜似氏の胸を打つ語りがあり、戎、寿咲両氏の話の余韻をそのままに参加者の殆どが、交流会の会場へ移り、大甲区からのお客様と親しく懇談して全日程を終えた。

 

交流会で挨拶する大甲区の王澤佳副区長
懇談風景-1
懇談風景-2
懇談風景-3