上戶彩為東京Midtown點燈 28萬個LED燈打造浩瀚宇宙
東京都內隨著表參道、晴空塔等各地知名觀光景點紛紛開始聖誕點燈活動,讓整個東京都內在11月就已經有了濃濃的聖誕氣氛,而同樣也是東京觀光知名景點的東京中城(Tokyo Midtown)則在11月14日,請到主演電影《武士的菜單》主角上戶彩和高良健吾舉行點燈儀式,而這場每年都能吸引超過500萬人次到場的聖誕點燈活動將持續到12月25日。


上戶彩和高良健吾搭配《武士的菜單》的宣傳,特別在進行點燈時兩人手持傳統碗,放在膳食造型的點燈裝置上,瞬間周遭化成一片燈海,讓一旁圍觀的遊客都讚嘆說「好美」。上戶彩看到周遭閃爍的燈飾,也向高良健吾建議利用這美景向女孩子求婚,一定會讓女孩傾心的,高良則笑答:「是要這個活動期間嗎?」此外,兩人也表示今年的聖誕節如果可以在工作中度過也不錯。


今年東京中城的聖誕點燈活動,在2000平方公尺的星光花園草坪上,使用約28萬個LED燈,並利用最新的技術設計出立體拱型的燈飾,呈現出符合今年主題「浩瀚宇宙」的氛圍,而東京中城也表示架設在空中的LED燈從各個角度看來都可以閃耀無比,這是世界上第一次將此技術運用在點燈活動上。



吳尊、周渝民演出《忠烈楊家將》 12月14日起日本公開上映
華人地區大家耳熟能詳的歷史故事楊家將,改編成電影《忠烈楊家將》,集結了鄭少秋、鄭伊健、吳尊和周渝民等知名男星演出,由電影《霍元甲》導演于仁泰執導,片中演出楊家忠烈的7位男星分別是來自台、港、中的人氣男星,也是堪稱史上最帥楊家將。

故事背景是描述北宋名將楊令公奉命前往金沙灘襲擊遼軍,然而國丈潘仁美卻公報私仇,眼見他被遼兵團團包圍卻不出手相救,楊令公妻子佘太君於是緊急命令楊家七子前往兩狼山營救父親,而電影內容則是著重在描述七位兒子如何以寡敵眾、捨身取義營救父親的英勇故事。

因為電影中需要黏頭套、吊鋼絲,還需要武打功夫等,讓首度演出古裝戲的周渝民在今年2月在台灣宣傳電影時直說:「拍攝經驗讓我覺得算是一個很好的回憶,但以後還是少拍好了。」此外,為了片中騎馬的畫面,周渝民也練習騎馬,還把屁股都給磨破了,他說:「我馬的幅度頻率,跟他馬的頻率是不一樣,我不是在罵髒話喔,後來就整個屁股都開花了。」


另外,在片中一開場就大秀精壯身材的吳尊,也因為拍攝電影吃了不少苦,一場他和遼軍首領邵兵對決戲,不僅帥臉要被踩在地上,還得吊鋼絲呈現重摔的效果,為拍攝5分鐘的畫面,就花了10天的時間,不僅全身痠痛又傷痕累累,但吳尊不喊累的表現,相當敬業。
而周渝民和吳尊的魅力,也讓《忠烈楊家將》在台灣上映時,就有不少日本粉絲遠赴台灣參加簽票見面會、搶先進戲院一睹為快,如今電影將於12月14日在日本上映,勢必也會吸引許多日本粉絲進戲院捧場。
電影相關資訊請逕洽官網:www.u-picc.com/yokasho
優勝は台湾のテレサ・ルー選手~ミズノクラシック伊勢志摩(全米女子ゴルフ公式戦)
近鉄賢島カンツリークラブ(志摩市阿児町)で11月8日~10日まで繰り広げられた全米女子プロゴルフ協会(LPGA)公式戦「ミズノクラシック」が閉幕し、台湾のテレサ・ルー選手が優勝した。

テレサ選手は初日2アンダー、2日目4アンダー、最終日を9バーディー1ボギーの8アンダーで、チェラ・チョイ選手(韓)、一ノ瀬優希選手、比嘉真美子選手、大山志保選手を退け、14アンダー202打で優勝を果たした。
優勝賞金は18万ドル。志摩市提供の真珠のネックレス(約150万円)も勝ち取った。
ギャラリーは、3812人(昨年は4845人)だった。
テレサ・ルー選手は2006年から米LPGAツアーに参加、2010年に来日し、プレーを続けていた。「ミズノクラシック」はLPGA公式戦を兼ねており、LPGA大会としても初優勝となった。
嘉義縣長張花冠親自率團 參加靜岡世界茶葉節
享譽國際的嘉義縣阿里山高山茶,應邀參加靜岡2013年世界茶葉節,並表演台灣茶藝,深獲日本茶界及與會30多國茶品業者的喜愛,親自率團前來參加茶葉節的嘉義縣長張花冠則於台灣茶藝表演時,強力推銷阿里山高山茶,並建議利用富士山靜岡機場到台灣旅遊。而本屆世界綠茶評比會中則有來自台灣頭份怡明茶園的「蝶舞花語」茶器、茶葉禮盒以及南投碧盧台灣茶的「碧盧高山有機茶磚」榮獲金獎。

張花冠此行除了推銷嘉義產的茶葉之外,也拜會日本當地政府,進行地方交流,11月7日與靜岡縣政府副知事大須賀淑郎會面,會中張花冠便表示靜岡縣和嘉義縣各有名山名茶名花,物產豐富等相似的地方,且雙方也簽訂體育交流協訂和防災支援備忘錄等協議,關係日益緊密,因而盼兩縣能更上一層樓,落實觀光、產業和文化的交流。

當天晚上則在駐橫濱辦事處處長李明宗的陪同下,出席靜岡縣議會日華友好議員聯盟會長森竹治郎舉辦的歡迎宴,包括縣知事川勝平太和該聯盟幹部等20餘名出席,席間該聯盟並表示明年將再組團訪問嘉義,而張花冠則回應明年嘉義將舉辦茶展,因此將力邀靜岡前往參展。
台北駐日経済文化代表処 徐瑞湖副代表インタビュー
8月13日付けで台北駐日経済文化代表処副代表に就任した徐瑞湖氏にプロフィールと仕事への抱負を聞いた。

Q日本(語)との出会いは。
A私の生まれ故郷は苗栗県大湖郷という田舎ですが両親は日本語教育を受けましたので家の中で秘密のことは日本語でしゃべるんです。子どもたちが寝た後でアイスを食べるとか、映画を観に行くとか(笑)。小さな頃から日本語を聞きなれていました。もう1つ、隣村は泰安郷といって原住民集落でした。彼らは週に1度トラックで買い物に来るんですが、家(文房具店)にもやって来ました。会話はすべて日本語だったんですね。
Q学校について。
A中学1年生まで故郷の学校だったんですが、(高校への)進学率が低いということで父が新竹に勉強しに行きなさいと、中2の時に転校しました。そこは進学率は良くて同級生は建国高級中学、新竹高級中学、新竹師範学校など全員、いい学校に受かりました。私は勉強よりもバスケットに熱中していて、いい高校にはいけず、台北師範専科学校に入学しました。父は医学校を望んでいましたが最終的には師範学校なら悪いことはしないだろうと認めてくれました。
Q教員生活は。
A5年間勉強した後、兵役2年を経て新北市の金山郷の三和小学校に赴任しました。続いて深坑小学校、3校目に台北市実践小学校に転校したところで、バレーボールチームの監督を担当することになり、台北日本人学校と練習試合をするようになったわけです。そこで日本人学校の先生との付き合いが始まりました。植木先生、大門先生、西村先生、川添先生とつながっていきました。台北日本人学校は3年が勤務期間でしたから。実は私は教員をしながら日本語の勉強をしたいと思い、淡江大学の夜間部(日本語学科)に通っていましたが、この日本人学校の先生との交際のおかげで日本語は他の生徒より上達しました。
Q外交官になったわけは。
A淡江大学に日本研究所という大学院ができまして、受験しました。受かった後は、教員を続けながら勉強しました。政治・経済を専攻しましたのは、講師が政府の高官である場合が多く、その方々はご自分の家か台北の分校で教えることが多く、淡水まで通う必要がなかったこともあります。ただ、人より1年多く、3年半費やして卒業(修士)しました。
その後、外交官試験に合格しまして、父も大変、喜んでくれました。ただ、当時は進路上の選択肢はいくつかございました。
Qその意味は。
A小学校で校長先生になるか、外交官試験を受けるか(3回挑戦)、筑波大学への入学許可をもらっており(交流協会の奨学金も受かっていた)、将来大学の先生になるか、という3つの選択肢がありました。外交官になった場合、12年間の教員生活の勤務年数も合算されることもございまして、結局、外交官に挑戦したわけです。
Q外交官になってから。
A最初は亜東関係協会薦任科員として日本の国会議員、地方議員、地方の親善協会の方々のアテンドをしておりました。1990年1月に代表処書記官として来日し、1995年7月まで5年半勤務しました。蒋孝武代表が約1年半、その後、許水徳代表に代わりました。総務課長をさせたいただいた後、やがて業務部(政務部)に移動し、以後はずっと業務部です。台湾に戻り、亜東関係協会秘書科長になりましたが通常より長い勤務になりました。というのは、本来は4年半で大阪弁事処に行く予定が1999年9月21日の大地震の際、日本からの救援隊のアテンドに尽力したことが認められて、半年後の東京勤務に変更になった次第です。
2回目の代表処勤務は2000年から2006年ですが、肩書が業務部次長になっていました。これは名義だけだとしても破格の扱いだったと思いますね。6年間業務部で勤務し、正式な副組長となって台湾に帰国しました。亜東関係協会では2006年から2009年夏まで勤務し、2年ほど副秘書長をやりましたが、札幌に新しい事務所作ることになり。準備のために2009年8月に札幌に入りました。
Q札幌での仕事は。
A新しい総領事館ということで自分にとって、外交官にとって初代弁事処長というのはこれ以上、誇りある仕事はないなと思いました。12月1日にオープンしました。私にとって北海道の4年間は外交官のキャリアのなかでかけがえのないものになりました。例えば北海道の観光都市には日台親善協会を10ヵ所作りました。観光客に事故があった時に電話1本ですぐに対応できます。10月8日には北海道日台親善連合会発足会議がありました。これから正式に立ち上げます。今後も増えるでしょうし、会員数は1000人以上です。私の送別会には北海道高橋はるみ知事、加藤礼一北海道議会議長ほか大勢の方々がいらしてくださいました。
Q8月に副代表に就任されたが。
A東京勤務が11年半、そのうち9年は政務でした。今回は羅坤燦副代表の後任として来ました。私にとっては副代表というよりは外交官にとっての最後の花道です。私も1952年生まれ現在61歳。定年は65歳ですから4年はあります。北海道勤務を合わせると東京での仕事は2年はあるのではと思います。全力投球で台日関係をもっといい方向に促進されるよう努力したいと思います。副代表の仕事は代表を補佐し、また、代表の指示を受けて、代表が与えられた任務や政府の政策をできるだけの力を出して達成する、使命を果たすということだと思います。
徐瑞湖副代表:1952年生まれ。台北師範専科学校卒業、淡江大学日本語学科(夜間部)卒業、淡江大学日本研究所修士。1973年台北県、台北市小学校教師、86年外交部に入り、亜東関係協会薦任科員、90年台北駐日経済文化代表処書記官、95年亜東関係協会秘書科長、00年台北駐日経済文化代表処業務部次長、06年外交部日本事務会諮問委員、専門委員、08年亜東関係協会副秘書長、09年台北駐日経済文化代表処札幌分処処長、2013年8月13日台北駐日経済文化代表処副代表。























































